元関脇・寺尾の死去に関して 兄・逆鉾との比較

 兄の逆鉾も最高位は同じく関脇だったが、逆鉾は関脇を9場所連続で務めていた時期があり、大関候補と言われていた。一方寺尾は大関候補と言われたことはなく、上位力士に挑戦するという立場だった。

 対千代の富士戦に関しては寺尾が1勝に対して逆鉾は3勝を挙げている。また寺尾は千代の富士に挑んでいたというイメージの一方、逆鉾は互角の相撲を取っており、当時の相撲ファンにとっては好取組だった。特に巻き替えの応酬は見応えがあった。

 相撲の取り口に関しては寺尾が突っ張りを武器としていたのに対して逆鉾はモロ差しを得意としていた。そして同じくモロ差しが得意であった父・鶴ヶ嶺譲りの相撲を取っていた。また逆鉾は天才肌の力士であり、相撲センスが抜群だった。一方の寺尾は逆鉾と比べると努力型の力士であり、番付も勝ったり負けたりを繰り返しながら少しずつ上げてきたという感じである。小さい時からしょっちゅうけんかばかりしていたと寺尾が語っていたようだが、相撲を見てもその違いがよく分かるくらいだった。

 引退後に関しては逆鉾は井筒部屋を継承し、寺尾は独立して錣山部屋を創設した。逆鉾は師匠としては横綱鶴竜を育てた。それは立派である。しかし部屋消滅時点では部屋の力士は3人しかおらず、部屋が盛り上がっていたとは言えない。天才肌の気質が師匠としてはマイナスに働いたのかもしれない。一方の寺尾は阿炎、豊真将など複数の関取を育てた。また2024年1月場所時点でも力士が14人おり、中規模な部屋である。そして部屋付きの元小結豊真将の現立田川親方が師匠代行として協会から承認された。その後近日中に名跡を錣山に変更し、部屋を継承する方向となった。また阿炎は部屋に遺体が運ばれるとハイボールで献杯しながら遺体の横で死別を惜しんでおり、弟子から愛されていたのがよく分かる。師匠の人柄が良かったからこそ多くの弟子がついて来たということだと思う。

続く