角界のスプリンター! 尊富士 記憶に残る力士とは? 益荒雄に関して その1
記憶に残る力士と言われたら皆様は誰を思い浮かべるだろうか?。私の中では大関に上がれなかった力士が思い浮かぶ。琴錦、若の里、逆鉾、寺尾、貴闘力など元関脇の力士である。あるいは舞の海、智ノ花などの小兵力士といったところである。
そして尊富士に関して記憶に残る力士として思い浮かんだ力士が一人いる。元大関・益荒雄である。益荒雄は福岡県田川郡糸田町出身で押尾川部屋所属だった。また身長188センチ、体重127キロであり、右四つ・寄り・下手投げを得意としていた。
1987年3月場所では新三役となる東小結に昇進すると二横綱四大関を破る大活躍で初の殊勲賞を受賞し、「益荒雄旋風」を巻き起こした。またこの時期には横綱・千代の富士のニックネーム「ウルフ」になぞらえて一般からの公募により「白いウルフ」というニックネームで知られるようになった。また地元の糸田町も益荒雄人気で沸き上がり、白星を挙げると花火が打ち上げられるようになった。
次の5月場所でも二横綱二大関を破る活躍で10勝5敗の成績を挙げ、2度目の殊勲賞を受賞した。続く7月場所では関脇に昇進したものの、4勝11敗という成績に終わった。結局関脇はこの1場所だけであり、その後は三役に復帰できなかった。
そして次の9月場所では大乃国に寄り倒しで敗れた際に右膝の靭帯を痛めて途中休場し、この場所から怪我との戦いが続いた。その後は幕内と十両の往復が続き、幕下陥落が濃厚となった1990年7月場所を最後に29歳の若さで引退し、年寄・錣山を襲名した。
引退後は独立して阿武松部屋を創設し、その後協会理事となった。そして2019年9月26日に元幕内・大道の音羽山親方と名跡を交換して部屋を継承させた後、体調不良を理由に協会を退職した。
続く
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