これぞ理想の横綱! 照ノ富士 来歴 間垣部屋時代
インターハイ団体優勝を果たした後、白鵬から「入門できる部屋が見つかったよ」と連絡がきた。角界には「外国人力士は各部屋に一人まで」という決まりがあり、白鵬がずっと探してくれていた。そこで見つけてもらったのが、当時の間垣部屋だった。そして12月に間垣部屋へ入門すると同時に高校生活は約8か月で幕を閉じた。ビザの関係で前相撲は3月以降になったが、2011年3月場所は八百長問題で中止になってしまったため、次の5月場所で前相撲を取ることになった。
師匠の第56代横綱・二代目若乃花の間垣親方は、入門する4年ほど前に病に倒れ、満足に指導できていなかった。そして師匠の代わりに当時十両だった若天狼や、後に付け人となる駿馬、部屋に所属する呼出しの照矢が面倒を見た。
素質が高く、序ノ口、序二段、三段目をそれぞれ一場所で通過し、幕下に昇進した。そして昇進後も勝ち越しを続け、幕下上位と言われる幕下15枚目以内に番付を上げた。
しかし幕下上位で壁にぶつかった。理由は二つある。一つは師匠が病気でおらず、ちゃんこにも事欠き、食生活が充実していなかったためである。そしてもう一つは稽古相手が二人しかおらず、しかも自身が稽古をサボっていたようである。素質の高さだけで関取になれるほど角界は甘くない。ある意味では当然である。
それと同時に強くなると見込んでいたのだろう。駿馬と照矢が先を見越して生活のことで厳しく指導していたようだ。しかし本人はその意図が分からず、当時は不満や反発の気持ちが大きかったらしい。
続く
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