歴史をつないだ男! 栃大海 師匠の存在

 師匠の春日野親方は元関脇・栃乃和歌である。和歌山県海南市(旧海草郡下津町)出身で春日野部屋所属だった。また身長190センチ、体重162キロであり、右四つ、寄り、上手投げを得意としていた。箕島高校から明治大学に進学した。そして1985年3月場所にライバルの両国(元小結、現境川親方)とともに幕下付出しで初土俵を踏んだ。当時は両国とよく比較していた記憶がある。両国は栃乃和歌より体重が重かったが胴長短足の体型であり、突き、押しを得意としていた。一方の栃乃和歌はオーソドックスな右四つの相撲であり、体型もバランスが取れていた。ということで対照的な両者だった。

 1992年3月場所は小結で12勝3敗の好成績を挙げ、千秋楽まで優勝争いを演じた。また大関候補ではあったものの、攻めが遅い上に体が固かった。そして怪我に泣かされたこともあり、大関昇進は成らなかった。しかし左上手を取ると力を発揮し、右四つに組み止めた時の力は大関級だった。地力があり、引退前まで常に幕内上位で相撲を取り続け、幕内在位は76場所を数えた。

 1999年7月場所に現役を引退するとともに年寄・竹縄を襲名し、部屋付き親方として後進の指導に当たった。その後2003年に先代の春日野親方(元横綱・栃ノ海)が停年を迎えたことにより年寄・春日野を襲名するとともに春日野部屋を継承した。部屋創設以来三代続けて師匠が元横綱だった。そして自身は最高位が関脇だったが部屋継承の引け目はなく、むしろ「『弱者』というか、三役にとどまった者だからこそできる指導もある」「99%の力士は天才ではない」という考えに基づき、自信を持って現在まで指導している。

 部屋での稽古は厳しく、土俵上での稽古は待ったなしで進むスピーディーなものである。また出稽古をしない方針であり、待ったなしというのは当たり前であり、本場所で取り直しになってバテているようじゃ力士じゃないと語っている。

 そして学生横綱の日体大出身のブフチョローンが入門した。部屋の外国人でいえば以前は栃ノ心の門限破り騒動があり、碧山は支度部屋の穴を開ける騒動もあった。よって一時期師匠は「もう外国人は受け入れない」と心を閉ざしていたようである。また師匠は現在62歳であり、停年まであと3年である。ということでモンゴル出身の逸材の育成が師匠として最後の仕事となりそうだ。

続く