嫌らしい相撲を取る男! 翔猿 師匠の紹介 入門時と現役時代

 師匠は元幕内の大翔山である。最高位は東前頭2枚目だった。金沢高校時代はインターハイで準優勝した。そして日大に進学すると三年次にアマチュア横綱となり、四年次に学生横綱を獲得した。また久島以来の大物ということで入門時は各部屋による争奪戦となった。一時は藤島部屋、後の二子山部屋に決まりかけた。しかし同郷の中川親方による引退後の身分保証が決め手となり、中川親方が所属していた立浪部屋へ入門した。彼の入門により、双羽黒廃業以来沈滞していた部屋の勢いは盛り返し、その後日大同窓の大翔鳳や智ノ花を呼び込む原動力となった。

 この決定は後々で大きな影響を及ぼした。仮に藤島部屋に入門していたら貴乃花戦も、張り手の応酬となった貴闘力戦も観られなかった。その意味でこの判断は良かったと私は思っている。仮に藤島部屋に入門していたら今の人生が全く違ったものになっていたかもしれない。

 さて大翔山は石川県鳳至郡(現鳳珠郡)穴水町出身で立浪部屋所属だった。そして身長181センチ、体重181キロであり、右四つ・寄り・下手投げを得意としていた。そして右半身から腰の重さを生かして下手投げを打つ取り口を得意としていたが、腰への負担が大きく腰痛が持病となってしまった。そして左からの攻めを早くする型を指導されたが既に相撲の取り口が固まっており、右半身が直らなかった。おそらくアマチュアでは対戦相手の体が大きくないので通用していたのが大相撲では大型力士がおり、通用しなくなったということだと思う。

 結果的に三役には上がれなかったものの貴乃花や曙を苦しめた記憶は残っている。幕内の対戦成績は曙とは5勝4敗で勝ち越しており、貴乃花とは4勝4敗の五分だった。また曙に勝ち越している唯一の力士である。貴乃花は大翔山の右差しの相撲に苦労していた。腰が重いので寄るのも大変といった印象だった。また貴乃花より年上であり、大学相撲での実績があったので貴乃花にとっては乗り越えなければいけない壁の一つだった。

 結局1994年3月に右アキレス腱を部分断裂したことが原因で以降は幕内に復帰できなかった。そして翌年の11月場所で29歳の若さで現役を引退した。やはり大学時代が自身のピークだったのだと思う。残念ながら大相撲の世界では大成できなかった。しかしアマチュア横綱として角界でも存在感があったことは強調しておきたい。

続く