元横綱・曙の死去に関して 横綱昇進まで 

 話を戻すと1990年3月場所で新十両となった。そして同年9月場所は若花田(後の若乃花)、大翔山、貴闘力とともに新入幕となった。その後1992年5月場所千秋楽では若花田を一気に押し倒し、幕内初優勝を果たした。この場所は関脇であり、これで直近3場所の成績が、13勝、8勝、13勝で合計34勝となり、大関昇進の目安となる33勝を上回った。しかし二場所前の8勝が物足りないという意見が一部で出た。ただ当時は横綱は空位であり、大関も小錦と霧島の二人しかいなかった事情もあり、大関昇進が決まった。ちなみに昇進二場所前の8勝は以降は豪栄道一人しかおらず、成績だけを見たら見送られても仕方がなかった。よって恵まれての大関昇進だったことは否定できない。

 そして新大関で迎えた7月場所直前、直前のヨーロッパ巡業による時差ぼけの影響や遠征の疲労の影響のためか、稽古中に足の小指を骨折してしまった。本人は強行出場を直訴したものの師匠をはじめ周囲の人は大反対し、結局初土俵以来初の無念の全休となった。翌9月場所はカド番となったが9日目で3勝6敗と黒星が先行し、関脇陥落の大ピンチだった。しかし終盤は6連勝し、9勝6敗で何とか勝ち越した。翌11月場所は14勝1敗で二度目の優勝を果たした。そして場所後の横綱審議委員会では、「成績、内容ともハイレベルな横綱を作ろう」との意見が出て横綱昇進には厳しい条件が突き付けられた。翌1993年1月場所は11日目で平幕相手に2敗し、一度は横綱昇進は「破談」とされた。しかし千秋楽結びの一番では大関獲りの関脇貴花田との直接対決を僅か2秒余りで圧倒し、13勝2敗で三度目の優勝を果たした。そして二場所連続優勝を果たしたことで1月場所後の横綱審議委員会を経て外国出身初の横綱となった。それと同時に1992年5月場所から5場所続いていた横綱空位が解消された。同じく貴花田が大関に昇進したが、1月場所は11勝に終わっており、厳しい見方をされた中での昇進だった。また興行優先で貴花田を上げる以上、二場所連続優勝の内規を満たしている曙を上げざるを得ないという側面もあったようだ。

続く