カテゴリー: 大相撲

  • 元横綱・曙の死去に関して その後の人生を決めた結婚

     結果的には結婚がその後の人生を左右した。弟子の育成にも興味があり、協会に残りたかったものと思われる。しかし当時は年寄株を取得して協会に残るには約3億円が必要だと言われていた。また部屋を新たに興すには10億円近い独立資金が必要だった。結局そんなお金を出してくれるのはタニマチ、つまり後援会となるのだが、現役時代に後援会が解散してしまった。現役時代は師匠の娘との結婚話があったところ、まとまらずに女優の相原勇との交際に至った。しかしこのままでは協会に残れないとの考え方を持つようになり、破局となった。その後は部屋や個人の後援会幹部がお見合いなどの話を競うように持ってきたが、曙は首をタテに振らなかった。妻となるクリスティーン麗子さんと付き合っており、妊娠したことで曙が結婚を申し込み、後援会関係者とは亀裂が生じた。師匠や後援会としては、曙の将来を心配してやっていたつもりであり、曙に振り回される形となった。引退後は曙親方として東関部屋付きの親方になったが、角界のしきたりに押し出された形で退職した。おそらく小錦も事情を分かっていたのだろう。協会を出てフリーになった方がいいとアドバイスしていたようである。

     ただ、師匠や後援会幹部の反対を押し切って選んだクリスティーン麗子さんとは、温かい家庭を築いた。ライバルだった若貴はいずれも離婚しており、対照的である。曙と夫人は最後まで一緒だったし、結婚後は浮ついた話も出なかったようである。その意味では幸せな人生だったと思う。

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  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身の紹介 武蔵丸 貴乃花戦と引退後に関して

     2001年5月場所は14日目に貴乃花が右膝半月板損傷の大怪我を負った。そして千秋楽の本割結びでは突き落としで貴乃花にあっさりと勝ち、決定戦に持ち込んだ。しかし決定戦ではまさかの上手投げに横転し、優勝を逃した。また優勝した貴乃花はこれが最後の優勝となった。

     その後7月場所からは貴乃花の長期休場により、実質7場所の間一人横綱の時代が続いた。決定戦で貴乃花に負けたショックは大きく、半年くらいは投げやりになっていたみたいだ。しかしその後は奮起し、貴乃花との再戦を望み、心を入れ替えて稽古に励んだ。その甲斐あってか同年11月場所は13勝2敗で7場所ぶり9回目の優勝となった。

     2002年は1月場所は途中休場したが3,5月場所で連覇を達成した。そして9月場所は千秋楽相星決戦で長期休養明けの貴乃花を倒し、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。しかし奮闘もここまでだった。同年11月場所は持病の左手首の故障が悪化し、途中休場した。場所後に手術を決行したものの結局全快には至らなかった。そして2003年11月場所で進退を懸けるも3勝3敗と波に乗れず、7日目に土佐ノ海に敗れた後、師匠と話し合い、現役引退を決断した。

     引退会見ではかつて高校時代でアメフトの試合で首を痛めており、入門当初から左肩にはほとんど力が入らなかったことを明らかにした。また師匠の武蔵川親方にすら引退会見のその時まで語っていなかった。個人的にはもう少し優勝できたはずだと思っていたが、左肩を痛めていたということで納得である。

     存在としては同じハワイ勢の小錦や曙のような派手さはなかった。また曙や若貴が衰えてきた後に力を発揮し、土俵を支えたという印象である。特に右差しの相撲は凄かった。足腰が良かったこともあり、腕を返すと相手の体が浮き上がっていた記憶がある。

     また引退後は親方となった後、武蔵川部屋を独立(事実上の再興)し、師匠として後進の指導に当たっている。若貴と曙は協会から離れた一方、武蔵丸は部屋の師匠であり、今思えば合点がいく。3人の取組は殺気立っていたが、武蔵丸はそんな様子は全く見られず、淡々と相撲を取っていた印象である。そして3人に巻き込まれる形で相撲を取っているようにも見えた。また土俵上だけでなく人間としてもバランスが取れており、気は優しくて力持ちといった感じの力士だった。同じハワイ勢では曙はライバルということもあり、あまり仲が良くなかった。一方小錦とは今でも仲が良く、時々小錦が部屋を訪ねることがあるようである。曙とは長らく連絡を取っていなかったようだが、同郷の二歳上の先輩であり、ショックだったのは言うまでもない。

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  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身力士の紹介 武蔵丸 横綱昇進まで

     ハワイ州オアフ島出身であり、武蔵川部屋所属だった。また身長192センチ、体重224キロであり、突き・押し・右四つを得意としていた。最高位は横綱であり、1990年代から2000年代始めにかけて活躍した。サモアで生まれ、父はトンガ人、母はサモア人である。6歳の時に一家でハワイに移住した。そして大相撲入りの勧誘を受けたことを機に、過去に相撲との接点が全くなかったにも関わらず「大きな体を生かして家計を助けよう」と決心し、武蔵川部屋に入門した。元高見山が師匠だった東関部屋を含めて4つの部屋から勧誘があったが、最初に勧誘してくれた縁で武蔵川部屋を選んだ。小錦、曙と違ってハワイ出身ということを除けば表立った接点はなかったのが面白い。

     出世は早く、番付に四股名が載って二年後の1991年11月場所で新入幕となった。終生のライバルとなる貴ノ浪などと同時の新入幕であり、東前頭12枚目で11勝4敗の好成績を挙げ、敢闘賞を受賞した。そして平幕は僅か3場所で小結に昇進し、三役に定着した。その後1994年1月場所後に貴ノ浪と同時に大関昇進を果たした。

     大関昇進後は同年7月場所で史上初となる外国人力士による幕内全勝優勝を果たした。ただその後は終盤まで優勝争いに加わったものの横綱の曙、貴乃花にあと一歩及ばない成績が続いた。また左肩を痛めた影響で突き押しから右差しで腕を返して寄る相撲に変えた。

     1996年1月22日に日本国籍を取得し、本名を「武蔵丸光洋」とした。その後1999年5月場所で13勝2敗で4回目の優勝を果たした。また大関として二場所連続優勝であり、場所後に横綱昇進となった。ちなみに大関在位32場所で負け越しとカド番は一度も経験しておらず、これは大相撲史上最長の記録である。また武蔵丸の横綱昇進により、平成に入ってからは二例目の四横綱時代となった。

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  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身力士の紹介 小錦 大関陥落後と曙戦に関して

     その後大関から陥落し、平幕に下がった後も相撲を取り続けた。また大関時代は憎まれ役の立場だったが、平幕に落ちても現役に執着するその姿は、最盛期にも勝る人気を得ていた。同じく大関から陥落していた霧島との対戦や、小兵の舞の海との体重差約200キロの異色対決は大きな話題となった。そして1997年11月場所で現役を引退した。

     引退後は年寄「佐ノ山」を襲名し、高砂部屋付きの親方として相撲協会に残ったが1998年7月場所をもって退職した。現在はタレントとして活動している。

     横綱にはなれなかったが、その存在感と人気は横綱クラスであり、人格者として角界の人気と地位を向上させた。1990年代後半は多くのCMに出演し、「CMの横綱」と呼ばれたこともあった。時に誤解されることはあったものの口は達者であり、横綱の肩書は必要なかったのかもしれない。

     また曙戦に関しては1993年11月場所13日目、負ければ大関陥落するという一番が曙戦だった。結果は曙の完勝であり、小錦が関脇に転落することが決まった。曙は引退時に「あまりに辛すぎる恩返しだった」と語っていた。一方の小錦は「仕方がない。でも、いつかこういう日が来るだろうと覚悟はしていた」と語り、曙とは対照的に淡々とコメントしていた。そして曙は翌日小錦に自身の勝利を謝ったが「これからの力士であるお前が俺に勝てないでどうする」と叱責されたそうだ。葬儀では40年来の付き合いを語っており、しかも後輩に先立たれたということでショックは大きかったと思う。先述の曙戦では曙が勝った後に小錦にぺこりと頭を下げており、同じハワイ勢ということで友情もあったものと思われる。年は違うが角界で一緒に戦ってきた戦友と言ってもいいかもしれない。小錦は葬儀で「歴史に残る力士」とたたえていたが、小錦も立派な功労者である。

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  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身力士の紹介 小錦 大関昇進後

     その後1987年5月場所後に大関昇進を果たした。外国出身力士としては史上初めての大関誕生ともなった。

     大関昇進後はなかなか優勝争いに絡めなかった。しかし1989年11月場所は最後まで優勝を争った千代の富士には13日目の直接対決で勝利した。そして千秋楽も勝ち、14勝1敗という成績でようやく悲願だった幕内初優勝を果たした。また高見山に次いで、史上二人目の外国出身力士の優勝となった。

     そして1992年3月場所は13勝2敗で3回目の幕内優勝を果たした。二場所前は13勝2敗で優勝しており、1月場所は12勝3敗ということで横綱に昇進してもおかしくない成績を挙げた。しかし相撲協会から横綱審議委員会への諮問はなく、横綱昇進は見送りとなった。これに関して当時の出羽海理事長は「真に強い横綱を誕生させるため、もう一場所見守って欲しい」と説明した。

     当時相撲を観ていた者としては見送られても仕方がないと思った。成績も14勝以上はなく、他を圧倒するほどの強さではなかった。そして曙、若・貴などの若手力士が育ってきており、もう少し様子を見たいという理事長の判断は間違っていなかったと思う。結局その後は優勝争いに加わることすらなくなった。結果的には横綱に上げなくて正解だったと言える。

    続く

  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身力士の紹介 小錦 小錦旋風と右膝の大怪我に関して

    ・小錦

     ハワイ州ホノルル出身であり、高砂部屋所属だった。また身長187センチ、体重236キロであり、突き・押し・右四つ・寄りを得意としていた。最高位は大関であり、1980年代~90年代に活躍した。ハワイ勢でいえば高見山とは同部屋であり、弟弟子だった。また曙とは同じ高砂一門であり、先輩大関として稽古を付けた。

     忘れもしないのが入幕二場所目となった1984年9月場所である。番付は西前頭6枚目だったが12勝3敗の好成績で殊勲賞と敢闘賞を受賞した。初顔の千代の富士、隆の里の両横綱からそれぞれ初金星を奪った。また綱取りだった大関若嶋津も倒すなど上位陣をなぎ倒した。特に凄かったのが千代の富士戦である。立ち合いから小錦が突っ張ると千代の富士がなかなか懐に入れない。そのまま千代の富士は防戦一方となり、小錦が押したところで千代の富士の両足が土俵を割ってしまった。当時見ていたが、これはかなり衝撃的だった。体が大きいだけでなくスピードがある。そして足腰も柔らかい。まさに黒船襲来であり、こんな力士をどうやって止めるのかという雰囲気が漂っていた。また場所前の巡業で上位陣が小錦との稽古を避けた結果でもあった。

     その後1986年5月場所8日目の北尾、後の双羽黒との対戦で、取り直しの一番で小錦が吊り上げようとしたところで北尾がさば折りをかけた。さば折りとは廻しを取って強く引き付け、上から圧迫するようにして相手の膝を土俵に付かせる技である。この技を掛けられると腰や膝に大きな負担がかかるため、成長途上の小・中学生のアマチュア相撲では禁止される場合が多い。また北尾は身長189センチの長身であり、技が決まりやすい条件が揃っていた。そして両社合わせて400キロ以上の体重が小錦の右膝に集中し、耐えきれずに靭帯を損傷、骨折という大怪我を負った。その後二場所連続休場を余儀なくされたが、右膝の怪我は完治することなく、後遺症に苦しめられることとなった。

    続く

  • 元横綱・曙の死去に関して ハワイ出身力士の紹介 高見山

    ・高見山

     ハワイ準州マウイ島出身であり、高砂部屋所属だった。また身長192センチ、体重205キロであり、突き・左四つ・寄りを得意としていた。最高位は関脇であり、1960年代後半~1980年代前半にかけて活躍した。

     功績は非常に大きかった。まずは中国・韓国(朝鮮)など、東アジア系の出身を除けば、外国出身者として当時最も活躍した力士であり、後の各国力士、特にハワイ勢の活躍の道を開いた。パイオニアと言える存在であり、高見山の功績がなければ後の小錦、曙、武蔵丸が活躍できたかは分からないと断言できる。

     次に16年間、97場所にもわたる幕内在位は当時の大相撲最長記録だった。また12個の金星を獲得し、一時は現役力士の最多記録だった。その巨体とパワーは、ツボにはまれば輪島や貴ノ花を圧倒するほどのものだった。金星12個のうち7個は輪島から獲得している。

     そしてアメリカ人らしい陽気さと巨体を持つのと同時に、独特の長いもみあげなど特徴ある容貌も人気でテレビCMにも出演するなど、土俵の外でも活躍した。当時は貴ノ花と並んで人気者だった記憶がある。そして陽気な一方で異郷での辛い修行に耐え忍ぶ古来の日本人のような生き方も広く知られていた。よって相撲ファン以外にも絶大な人気があった。現在はそのような力士は見当たらず、ハワイ勢の中でも人気に関しては高見山を超える力士はいなかったと言える。

     あとは小錦を自らスカウトし、弟弟子として稽古を付けた。また東関部屋を興し、曙を横綱まで育てるなど大相撲の国際化にも大きく貢献した。加えて高見盛も育てており、師弟二代で角界の人気者となった。

     ただ曙が闘病生活を送っているのは分かっていたと思うが、元師匠が弟子を先に見送るというのは辛かったと思う。また厳密に言えば師匠と弟子の関係ではないが、北の富士さんより先に千代の富士が亡くなっており、人の死は本当に分からないものである。現在79歳でもうすぐ80歳だが、もっと長生きしてほしいと思う次第である。

    続く

     

  • 元横綱・曙の死去に関して 横綱昇進と今の相撲界の現状

     さて曙に関して思い出すことの一つに横綱に昇進した頃が挙げられる。1993年1月場所で3度目の優勝を果たし、場所後の横綱審議委員会を経て横綱に昇進した。また外国出身初の横綱となった。それと同時に1992年5月場所から1993年1月場所まで5場所続いた横綱空位が解消された。当時は横綱空位が解消されて嬉しかった記憶がある。以前の横綱空位は戦前までさかのぼる必要があり、異例の事態だった。1992年5月場所前に北勝海が怪我のため止む無く引退したことが原因だが、空位の間はファンとしては寂しかったことを覚えている。やはり心のどこかで横綱がいないと締まらないというのがあったのだと思う。しかし当の曙は大変だったはずである。昇進後に元千代の富士に雲龍型の土俵入りを指導してもらい、明治神宮で奉納土俵入りをした時のことが忘れられない。当然だが他に横綱はおらず、お手本がいない。しかも外国人であり、戸惑ったのは容易に想像できる。しかし愚痴をこぼさず、日本人らしい心を持って横綱を務めたのは立派だった。また外国出身横綱の誕生ということで新時代の到来を予感させるものがあった。その後2年後に貴乃花、5年後に若乃花、そして6年後に武蔵丸がそれぞれ横綱に昇進した。また貴乃花が横綱に昇進するまでの約2年は一人横綱であり、責任が重くのしかかった。しかしその間に4回優勝を果たしており、横綱としての役割を果たした。この部分に関してはファンのためというよりも協会のためによく頑張ったというところである。

     さて横綱空位の可能性があるのが今の相撲界の現状である。現在は照ノ富士の一人横綱が続いているが、横綱在位16場所中で9場所休場しており、二場所連続で結果を残すことが難しい状況である。腰と膝に爆弾を抱えており、今後も痛みと付き合いながらの土俵となりそうだ。また横綱候補としては豊昇龍と琴櫻が挙げられるが、すぐに横綱に上がれる状況ではなさそうだ。照ノ富士は体力的にきついかもしれないが、新横綱誕生までもうひと踏ん張りが求められる。個人的には横綱空位を避けるため、休場しても、マスコミや横審からから批判されても、新横綱誕生までは引退してはいけないと思っている。その点では照ノ富士にバトンタッチする形で引退し、横綱空位を避けた白鵬は偉かったと私は考えている。やはり照ノ富士の頑張りに期待するよりも、一日でも早く新横綱が誕生することを期待したい。

     それでは曙と同じくハワイ出身力士を紹介したい。高見山、小錦、武蔵丸の三人である。

    続く

  • 元横綱・曙の死去に関して 若・貴との激闘

     対貴乃花戦は21勝21敗の五分であり、対若乃花戦は18勝17敗ということでこちらもほぼ五分の成績だった。

     対貴乃花戦は真っ向勝負となり、離れて曙、組んで貴乃花ということで分かりやすかった記憶がある。また貴乃花が徐々に体重を増やし、押されにくくなったことで対戦成績で巻き返し、最終的には互角の星となった。

     対若乃花戦の方が相撲としては面白かった。貴乃花より体が小さいので真っ向勝負ではまず勝てない。よって若乃花はいろいろな策を講じて臨んでいた。また若乃花が曙を転がして勝った相撲もあり、小よく大を制すということで館内が非常に盛り上がっていた。

     さて先述の通り若・貴とは同期入門だった。また若・貴は現役時代はプリンスと言われた元大関貴ノ花の息子であり、入門時からマスコミに注目されていた。そのこともあり、曙は最初から若・貴をライバル視していた。一方の若・貴はどちらも曙への強い意識はなかったようである。しかし若・貴としても曙の方が早く出世しており、曙に勝たなければ上には上がれない。よって幾多の名勝負が生まれた。また若・貴ともに体は大きくなく、覚悟の上で土俵に上がっていたかもしれない。まさに鬼気迫るといった表現がピッタリであり、この取組以上に緊張感のある取り組みは観た記憶がない。相撲だけでなく、仕切りの時から張り詰めた空気が漂っていた。それでも曙はプライベートでは陽気なハワイアンに戻る。場所が終わると同期と飲み会を開き、魁皇や和歌乃山などと飲んでいたようだが、結局二人が来ることはなかった。

     そして引退後にハワイでのテレビ収録時に元若乃花の花田虎上さんが「本当は飲み会に行きたかった」と語ったようだ。本当は勝負を離れて楽しく飲んでいるのが「うらやましかった」と。しかし若乃花は「行かなかったことによって、あれだけ、いい相撲を取れた」と言ったようだ。若乃花は勝負に徹した。それは貴乃花も同じである。今の時代には合わないが、私はプライベートの付き合いを断ったからこそ名勝負が生まれたと考えている。

     さてここまでなら美談なのだが、観る方としてはそれだけでは片づけられない事情があった。それはやはり二子山部屋の存在である。終盤で若・貴と相撲を取るまでに、曙は同部屋の貴ノ浪、貴闘力、安芸乃島などを倒す必要がある。そして曙は孤軍奮闘であり、援護射撃してくれる力士は一人もいない。よって私は曙が取りこぼさずに終盤まで優勝争いをすることを願っていた。その点で歴代十位となる通算11回の幕内優勝を遂げた実績は数字以上に評価されてしかるべきである。現在のように強い力士が各部屋に散らばっている状況ではなく、仮に総当たりであれば優勝回数を伸ばせたのは明らかである。また二子山勢の後は武蔵川部屋が出てきた。横綱武蔵丸をはじめとして大関武双山、出島、雅山がおり、大変だったのは容易に想像できる。

    続く

     

  • 元横綱・曙の死去に関して 相撲の取り口 私が観た印象

    ・相撲の取り口

     長身を活かした突き押し相撲を得意としていた。またリーチの長さを生かしたのど輪押しは威力があった。若い時はのど輪で土俵際まで押し、そのまま吹っ飛ばすような相撲を取っていた。観ている方は気持ちが良かったが、やられた相手はたまらなかったと思う。また横綱になってからは膝の状態が悪化したため、もろ手突きから右四つに組み止める相撲を取るようになった。キャリアが浅い割には廻しを取る位置が良く、相撲にも安定感があった。

    ・私が観た印象

     今まで観てきた中でインパクトに関してはナンバーワンである。やはり身長203センチ、体重210キロと体が大きいだけでなく、手足が長かったので迫力があった。曙の先輩にあたる小錦も突き押しの威力は凄かったが、曙は突き押しで一気に運べたので印象度は曙の方がより強く残っている。また同期入門の若乃花、貴乃花の敵役的な役割を担っていたが、日本人でも曙のファンは一定数おり、私も若・貴よりも曙を応援していた一人である。そして応援していた理由は1993年に当時の藤島部屋と二子山部屋が合併したことが挙げられる。これにより新生二子山部屋の幕内力士は最大10人となり、同部屋の対戦はないということで面白くなくなるという部分もあった。また二子山部屋には若・貴だけでなく貴ノ浪や貴闘力、安芸乃島などもおり、二子山部屋の力士が優勝しやすい状況が出来上がっていたのも事実である。一方曙は孤立無援であり、二子山部屋の力士を敵に回してまとめて面倒を見ていた。

    続く